昨年、手づくねで生まれて初めて茶碗をつくりました。 ↓こんなカンジ。 桐の箱に入れると急に立派に見えるから不思議です。(笑)
もともと焼物は好きなのですが、自分で作ってみると、 より興味は深くなるものですね。
本阿弥光悦・長次郎、この二人の名品が観たくて、 先日、東京国立近代美術館で行われている展覧会「茶碗の中の宇宙」に 行ってきました。
入口に足を踏みいれてすぐ、長次郎の大黒がドドーンとあったのですが、 威厳というのか、オーラというのか、あの佇まいはなんなのでしょうか。
ウハウハ興奮しながら長次郎の茶碗を舐めるように見回しました。
それから樂家代々の展示が続くのですが、 どの代の作品も、樂家という伝統を守りながら、 長次郎にない自分の個性を追い求めた苦労が垣間見え、 結果的に皆、長次郎に挑んで挑んで敗れたような印象を受けました。
書でいう臨書と思いますが、長次郎を真似た作品もあったのですが あまりにも風格が違い過ぎました。
何がそんなに違うのだろうと、疑問に思いながら会場を巡ったのですが、心に訴えない茶碗は、胴や腰など外部ばかりに意識があり、 見込み(内部)に表情がないことに気づきました。
長次郎の茶碗の中でも、特に千利休が愛用していた茶碗は、 茶渋のあとも手伝って、見込みに重厚感のある景色がありました。
「人も同じだな」 ふと、そんなことを感じました。
概してツイていない人というのは、無駄な動きが多いものです。 それは欲に掻き立てられ、自分にないものを追い求め、 外へ外へと意識が向き、内がお留守になってしまうことの表れです。
私も経験しているのでわかるのですが、 何かになろうとすることは、一見素晴らしいことのように思えますが ないものを求めることで、悶々とした精神と葛藤が生まれます。
強く穏やかな人というのは、 自分の弱いところを理解して、それを踏まえて生きている人です。 あるものに目を向け、自分を理解していかないと 穏やかな精神には辿り着けません。
・・・というのを踏まえ、もう一度自分の茶碗の内部に目を向けると もうノビシロしかありませんでした。(笑)
ちなみに一番感動した茶碗は、期待通りの本阿弥光悦でした。 人の幅といいましょうか、 茶碗から光悦の大物っぷりが伝わってくるようでした。
赤樂茶碗 銘「乙御前」 本阿弥光悦
高天麗舟