ゴッホより~普通に~ラッセンが~好っき~ ピカソより~普通に~ ラッセンが~好っき~
というネタを得意とする芸人がいるようですが、私はもっと普通で、 やっぱりラッセンよりピカソやゴッホが好きなんです。(笑)
少し前に上野で開催されていた「ポンピドゥー・センター傑作展」での ピカソの作品は本当にスゴくて(言葉のセンスなし。笑)、 しばらくその場から離れられませんでした。
そしてもうひとつ、その展覧会で印象に残っているのが、 ロシアの画家 ヴァシリー・カンディンスキーの言葉。
絵画の『内容』は絵画である。 そこに解読されるべきものはない。 どんなかたちも生命と内容をゆたかに感じる人には、 内容が嬉々として語りかけてくる。
これを読んで私は〝ある言葉〟を思い出しました。それは、 私が書の野尻泰煌先生に弟子入りして間もない頃、師に言われた言葉で
大衆にはわからなくても、 一万人に一人、いや、十万に一人の目を持つ人はいるから、 そこを意識して芸術家は自分の仕事をしていくんだよ。
というものです。 言われた当初は、その意味が難しく感じられたのですが 今は少しわかるようになりました。
カンディンスキーのいう「生命と内容をゆたかに感じる人」と、 師がいう「一万人に一人、いや、十万人に一人の目を持つ人」というのは 同じ人を指しています。
師がおっしゃるには、 作品には、作家の「境地」が表れるもので、 作家が境地に達していなければ、作品もそれなりだということで、 それと同時に、 作品を観る側も境地に達していなければ、 作品が境地に達したものかどうかを見分けることはできない、と。
ということは、 作家に「表現する」という意識があるうちは大した仕事はできず、 どう表現したいか?なんていう小賢しい意識が飛んだ時に はじめてその人の表現になる…というわけでして、 その丸裸になった時に境地に立てているか…なのですが、、、
難しいですかね?(笑)
結局、作家側も観る側も、 自意識というものを取っ払った…魂というのでしょうか、 そこを磨いていくしかありません。
占いで人を観る場合にも、 やっぱりそこを磨いていかないと、しっかり相手を観ることはできません。
引き続き、がんばります♪
最近、その「境地」が感じられるような作品に出会いました。 東京国立博物館で開催されている特別展「禅―心をかたちに―」 の中のコレ↓です。
ボキャブラリーが欠乏しているため、 うまく伝えられないのが心から残念なのですが、 やっぱり圧力がすごくて、その場から離れられず、 会場出口が近づくと何度も観に戻った作品です。
禅がテーマの展覧会だけに高僧の肖像が多く 「坊主めくりかよっ!」と思いながら巡った展覧会でしたが(苦笑)、 この書ひとつで、すべてが報われたような気持ちになりました。
素晴らしい作品を書けるよう、また、本当に良いもの、素晴らしいものに感動できるよう、感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。
高天麗舟