7月末、長野に行ってきました。
初日の目的は書家・川村驥山(かわむら きざん)先生の驥山館、
2日目は葛飾北斎の肉筆画美術館 北斎館と
北斎が88~89歳で描いたと言われる天井画をみるため岩松院へと出掛けました。
私は川村先生の曾孫弟子にあたるそうで
時々師から川村先生の作品集を見せてもらいつつ、話は伺っていたのですが
「酒が好きで墨に酒入れて…」というエピソードばかり印象に残ってしまい(笑)、
実際どういう先生だったのかは知りませんでした。
たまたま図書館に「書聖・川村驥山物語」という本があったので読んでみたのですが…
漢学者であるお父さんからの宿題とはいえ、小学校にあがる前から
孔子が弟子に教えた「孝経」(漢字2000字以上)を丸暗記。他にも
大人の私も読めていない「論語」「大学」「中庸」「孟子」を5歳から学んで書き、
さらに貴重な紙を汚すのはもったいないから
大きな葉っぱにひたすら墨で字を書き、池の水で消してまた勉強していたという
とんでもない神童。
これを苦とも思わず平気な顔でこなしていたそうです。
また12歳で明治天皇に作品を献上し、
陛下からも「まことの神童」とお言葉をいただいたとのこと。
凡人の私が言うのもおこがましいのですが
5歳なのに「苦とも思わない」というのがもう才能ですね、
夢中になっているうちに結果的に努力が積み重なっているのですから。
「あ~やっぱりここまでじゃないと、あの書は書けないんだな」
「教養のない人に書家はできないんだな」
改めて思い知りました。
写真上(画像は驥山館HPより)、5歳で書いた大丈夫。
きちんと揃えた指がその性質と家庭と…様々なことを物語ってます。
※『大丈夫』は、OK!ダイジョ~ブ♪ ではなく『立派な男子』という意味
さて驥山館、感激しました。
川柳っぽくなりますが「死ぬまでに こんな草書が 書けたらな」でした。
うまく言えないのですが、私の憧れが詰まった作品ばかり。
川村先生の作品をこの目でみて、
まだまだつまらないことに囚われて覚悟ができていない自分の青さを実感しました。
絶筆の作品「心」(画像は驥山館HPより)
5歳の「大丈夫」から様々な作品を経て86歳の「心」。
胸に迫るものがありました。本当に純粋に生きてこられたんだなと。
作家としての集大成というか、人としての集大成が晩年の作品には表れます。
二つの作品、通ずるものがあるのですが、「心」の方は布白から老巧、老練、老実…
一言でいうと言葉が露骨ですが、円熟した老人特有の境地が漂っていました。
充実した人生だったのだろうと、これもまた勝手に感じました。
勉強にもなりましたし、精神も満たされた 驥山館でした。
驥山館最寄駅「篠ノ井駅」
翌日は最初に岩松院へ。
天井画の大きさは畳21枚分、実際に見るとそこまで大きく感じないのですが
キッチリくっきり繰り返し描かれた松や竹の模様、そして色に怖さを覚えました。
しかもこの色、なんと170年もの間一度も塗り替えられていないという…
北斎さん、89歳でこの気力とは…どれほど元気な方だったのでしょう。
画像は岩松院HPより
非常に稀とは思いますが、
亡くなるまでエネルギッシュにアグレッシブに生きる老い方もあるんだなと
人生折り返し地点の私には、この生き方も憧れのひとつになりました。
北斎館では、北斎の様々な肉筆画が展示されていたのですが
陰陽五行や建築を学んでいたことをうかがわせる作品もあり、
北斎も描きたい作品により近づけるために
多方面から多くのことを学んでいたのだろうと思いました。
それもやはり苦に感じることなく、夢中になって学んだのだろうと感じました。
書家が書だけ、画家が絵だけしか学んでいなかったら、浅い作品しかつくれません。
層を厚く、下地をしっかりつくっておくことも作家には必要なことなんだと
そんなことを思いました。
…いや「下地をつくっておく」、この作為が既に才能ナシでした。
下地をつくる意識なく気づいたらつくっていた…という人に
才能は宿っているのでしょう。
私は書くことは苦になりませんが、残念ながら学ぶことは苦であることが多いです。
でも避けられないことなので、死ぬまで学んで参ります。
高天麗舟