滅多にない悲しい出来事を経験したり、
想像もつかないような辛い経験をされた方に
気の利いた言葉を掛けるのは難しいものです。
その前に、そんな言葉をかけて良いものかも考えてしまいます。
同じ経験をした者同士なら、慰め合うことも可能かもしれませんが、
まったく普通に暮らしている人が、何かを言ったところで、
それがたとえ真理だったとしても、
「私とあなたは違うのよ!」
と言われたらおしまいです。
私も、1万人~2万人に一人という珍しい障害のある娘を産んで、
今思えば、一時卑屈になっていたようで、
周囲の人にとって、扱いづらい存在になっていたように思います。
当時、一番面倒に感じていたのが(笑)、育児経験者のアドバイスで、
「そういう時は、あぁやればいい。」
「そうじゃなくて、こうするといい。」
などと聞かされるたびに、
うるせぇ~~~!!オマエんちの子とウチの子は違うんじゃ!!
と思ってました。
でも、自分が娘の障害に慣れてくると(受容)、
健常児でも障害児でも、育児は育児でやっぱり同じなんだな…
と思えるようになり、そして、
ただ自分で自分の境遇を特別枠に入れていただけだったんだな…
と気づきました。
珍しいケースや特別な経験をしていることに変わりはありませんが、
でも、
自分を「特別な経験者」という枠に収めきって、周囲を遮断してしまうと
経験を越えた真理には気づけなくなってしまいます。
それでは、自ら運を閉ざしてしまっているようなものです。
悔しい、悲しい、自分のせい、アイツのせい、、、
いろいろあると思いますが、
その気持ちをたっぷりと味わい尽くした(受容)後は、
(味わい尽くすのも大事と思っています)
自分を特別な枠から外し、
周囲の言葉に耳を傾けてみるのも良いかもしれません。
意外とうなづける話をしてくれているものです。
どう感じながら生きても同じ時間が過ぎています。
とらわれて生きても、前に進んで生きても、同じ時間です。
高天麗舟