『書と占い』

書家・占い師 の視点でみえた日常のあれこれ

制約と個性

今から10年ほど前のことでしょうか、 2~3年の期間だったかもしれませんが 本好きが集まる某団体に所属していました。

今でもそこで知り合ったゴク一部の方とは親交があり、 面白い出会いの場をいただいたなぁ~と不思議に また有り難くも感じています。

その団体に所属した当初は、独特な雰囲気が珍しく 面白おかしく関われていたのですが、時間が経つとともに 「私そのもの」が「その団体の主だった意識」に対して 違和と窮屈さを感じるようになり、乖離が生じました。

誰が悪いということではなく、 この「違和」と「窮屈さ」を感じる感性こそが私であり 私の個性なのだと、その時自分を再認識することができました。

書の話になりますが、 書には王羲之欧陽詢などの伝統の型がありまして、 これを徹底的に身体に落とし込む練習は避けられません。

この伝統の型がないまま書いてしまうと、 巷にあふれるイメージのみの マスターベーション作品で止まってしまうから大変です。

身体に落とし込むとは具体的には

その人個人の価値観・美意識・観念などの一切を取り除き まずは対象(伝統の型)そのままを純粋に見ること。 そして、その人個人の手の動きや身体の動きのクセを矯正し 伝統の型に限りなく似せてひたすら書いていく。

という練習。 (少なくても10年は必要です)

何のためにやるのかと言えば、もちろん上達のためなのですが 伝統の型を身体に落とし込むためには まずは自意識を洗い流す作業が必要なのです。

がおっしゃるには、

伝統の型に似せて似せて似せてひたすら書いていっても どうしても似せられないところが出てくるんだよ。 その残ったところがその人の個性なの。 近頃の人はとかく“自分探し”なんて言って 個性を見つけようとするけれど、個性なんて 自分でみつけようとして見つかるものじゃないんだって。

だそうで、(笑) やはり、ある程度の制約の中に身を置いて生じるズレの中に 個性はあるようです。

制約や他の意識に合わせきれないズレに蓋をせず しっかり向き合って大切に守っていきたいものです。

 

高天麗舟