先日のブログで、トークライブに行った話を書きました。
で、実は私。
その会場に足を踏み入れた瞬間、すでに中に入って舞い上がっているお客さんたちに違和を感じて、その場にいるのがつらくなっていました。
登壇の三人の大まかな主張を一言でいうと、「やりたくないことはやらず、好きなことだけやって生きる」だと思うのですが、その言葉の表面だけを都合よく解釈しているであろう人たちの氣で、会場は満ち溢れていたのです。
でも、お客さんだけの問題でもないのかもしれない。
トークライブ後半は、会場からの質問に答える時間が設けられていて、ある女性が手をあげました。
質問を要約すると、
毎日家事・育児(幼稚園児)に追われ、夫に家事を手伝ってもらいたいけど、すすんで手伝ってくれない。「手伝って欲しい」と、こちらから言う前に手伝って欲しい。
というものだったと思います。
それに対して、三人の中のおひとりの答えが、
「なんで家事をやらなければならないんですか?やりたくないのならやらなければいいのに。まず一週間、家事をやめてください!」
ビックリして茫然としました。こんなザツな答えってあるのでしょうか?
病気だったり、精神的におかしくなっているなら、一週間休むことも有効かもしれませんが、でも、こうして元気に会場まで足を運んできているわけです。
このままやめても、ただ罪悪感が残るだけのような…。
他にやってくれる人がいなければ、家事はこの女性の仕事と私は思うのですが…。
「やりたくないこと」でも、「やらざるを得ないこと」や「やむを得ないこと」というのは、「好き・嫌い」とは別次元のもので、通らなければ行きつくところに行けない必要な道だと私は思っています。
やりたくないイヤなことを避けずに通り抜けていく中で、人間の厚みや深みが鍛えられていくのだろうし、その中に次の段階へのキッカケやヒントが潜んでいると、私自身実感しています。
そんな私も「好き・嫌い」で判断して生きる傾向ではあるのですが、避けられないことや、縁で繋がったことなどは、それまでの自分の幅を広げる機会と思い、なるべく受け入れるよう心掛けてみたりしています。
自覚している「好き・嫌い」の他にもうひとつ、取り込む間口を設けることで、人の幅は広がっていくのかなぁ~と。
嫌いなものはなるべく少ない方が生きやすいですから。
高天麗舟