前回のブログ「師、野尻泰煌」に書いた通り
何の前触れもなく突然師は逝ってしまったのですが、それから数日経ったある朝。
「なるほど他力とはこういうことだったのか」
と腹に落ちた瞬間を迎えました。
あれほどまでの精神性と才能を持っていながら、これほどまでに呆気なく死ぬのか…と
人間の無力というか、この世の限界というか、とにかく複雑な何かが絡み合い、
私自身、何かになろうという気がこの瞬間からとことん無くなりました。
というか、何かになろうとして動くこと自体がまったくもってムダな事と
諦めの境地に入りました。
いや、だいぶ前から他力に生きるとわかってはいたのですが
あの朝の瞬間は真理として理解できました。
起きた事象をただ受け入れ、目の前のことをただこなしていく。
何かになろうとか何かを得ようとか結果目的で物事をこなしていくのではなく
こなしていった結果がどうなろうと知ったこっちゃない。
結果はあくまでもただの結果、なるようにしかならないし、なる時はなる♪
ということです。
その結果が人に賞賛されようとバカにされようと「ただ結果である」それだけです。
娘が通っていた小学校の特別支援級で図工の授業があったのですが、
不器用でハサミも使えないし、色塗りもはみ出すし、本人の主体性ゼロだし、
出来上がりの形に近づけるのは結局先生だし、
一体この授業に何の意味があるのだろう?と当時疑問に思っていたのですが、
今思えば、結果はどうでも良いことで、一生懸命ハサミを使う、色塗り頑張る、
という過程に懸命に取り組む経験が大事なのだと気づきました。
計算して取り組んだことは、一瞬上手くいっているように見えることもありますが
高いところから突き落とすために、わざわざ高く吊り上げられている場合もあります。
人間の欲と浅知恵で結果をこじらせないよう、
純粋に経験を積んで他力に委ねていこうと思います。
高天麗舟
やっと立春。今日から庚子の一年が始まります。