ほぼ毎朝、家族が目覚める前に30分~2時間書をかく生活をしているのですが、昨日は1時間書いて、なぜか墨汁の横に置いてある老子道徳経の本を手に取りました。
私、ここ数日「批判」について考えておりまして。
批判と意見の境目はどこなのだろう?とか、批判された人が批判するなと主張することも批判にあたるのでは?とか。
その他もありますが、主なものはこんな感じです。
「十五章 大人物」に、そんなものとは掛け離れた境地がありました。
ザックリ書きますね…
昔の真に優れた人物は、測り知れない器量をそなえていた。だから説明のしようもないのだが、強いて形容するならこんな按配になる。
まず、万事に慎重である。しかも重厚である。物事に執着せぬこと、氷の溶け行くさまにも似る。飾り気のないことは、手を加えぬ原木さながらである。無心なことは、広々とした谷そのものである。そして捉え所のないことは、濁った水を見る感がある。
これは実に底知れぬ深さを持つ人物である。濁りを濁りのままに受容して、濁りそのものの静止を待ち、しだいに清く澄ませていく。これをなしうる者がいったいどこにあろう。休止を休止のままに受容して、休止みずからの動きを待ち、次第に生々発展へと導く。これをなしうる者がいったいどこにあろう。
このように「道」を体得した人は、完全になろうと努めずにおのずと完全になる。みすぼらしさに甘んじて、立派になろうと努めないのは、そのためである。
これを読んで私が感じたことは、
批判は良いとか悪いとかでなく、あって自然なもの。自分の主張を通そうと執着しない。批判も受容できる度量はカッコイイ。
ということ。
昔から批判はなくならないし、それが発展に結びついたのかもしれないし。それに、占いを通してみても、生まれながらに批判グセのある人って、どうしてもいるんですよ。自分が正しいという主張でもなく、批判したくなっちゃうようなのです。
そして、今朝、スマホのメモを整理していたら「順逆一視」という言葉が出てきました。(こんな事とレシピばかりメモしてます。笑)
『菜根譚』の中の言葉だそうですが(すみません、読んでいませんが)、喜びと悲しみ、幸せと不幸、表裏一体。
主張をすれば批判をされる。主張と批判でワンセット。ふたつでひとつ。批判が沸くのは自然なことと受け止める。だからいちいち気にしない♪
と、私は感じました。
そういえば、美術には美術評論家、映画には映画評論家など、書でも表現したあとは、批判したくてたまらない人が手ぐすね引いて待っています。(笑)
作家は、批判されるのを承知で作品を世に出すわけです。
そして一流の芸術家は、受けた批評・酷評で客観視を得るようです。
批判してきた人と同じ目線だからアッタマにくるわけで、表現者・主張する者は、その反応を咀嚼できるだけの高みに達していないとどうにもならないようです。
…道のりは長い。(苦笑)
高天麗舟
昨日のブログとはまったく違った内容で自分でも笑っちゃいます。(笑)