『書と占い』

さいたまで活動している書家・占い師が日々の気づきをあれこれ書いています。

時代を変える「少数決」

もともと読書好きではないのですが、今から10~15年ほど前は よく自己啓発系や成功哲学の本などを読んでいました。

しかし、手相や四柱推命など占いの勉強をしたり、 易の研鑚のため易経を読み進めたり、 書作品の創作で老子道徳経などを読んでいくうちに 「成功しようという意識自体浅いんだな…」という(笑) 非常に心地よい冷めた境地に辿り着き、 日々、自分の器の中で精一杯生きるに至りました。

特に易経は、日常生活で易を立てながら勉強しているので もう、ぐうの音も出ないような原理原則を感じます。

中でも私が好んでいるのが「少数決」という原理。 いわゆる多数決とは真逆の、 「数の少ない者が、勢力があり主になる」考え方。

例えば上の写真は “地水師” という戦いの卦ですが、 六爻のうち、五つが陰で、下から二番目の爻だけが陽です。 陰の数が多いから陰が主体となっていると読むのではなく、

たったひとつの「陽=司令官」が 「陰=大勢の衆(兵)」を率いている

のように、一陽を非常に重要視します。

もっと簡単に少数決を言い表すと、 男子校に女子高生一人来たら、男子みんなが色めき立つくらい 女子高生一人の影響力は強い… というもの。(笑)

変わったことをすると何かと叩かれやすい世の中ですが

いつの時代も前例のないことをする人が現れ、 その他大勢の人は その人についていったり、流されたり、あるいは批判したりと いろんな形で結局は影響されながら その前例のない出来事が残っていくんだな… そういう人たちが時代を創っているんだな…

ということをしみじみ感じます。

いくら流行りの洋服を着て最先端のつもりでいても 既にあるものを着ているだけの追随者…なんですね。 皮肉です。(苦笑)

↑この本をGWの合間に読んだのですが、

バイクの事故で重度障害者になったある男性が 「ボランティアに頼るのはやめて、有料介助者を雇おう」と それまでになかった障害者自身が雇用主となるモデルをつくり、 それを機に、全国に自立生活センターが広まった…

というお話が載っていました。

やはり前例にないことをするのを恐れてはいけないですね。 心から勇気づけられました。

 

高天麗舟

※私が所属する泰永会の展覧会がオーストリアで開催されます。 この式典に出席するため、5月の鑑定はお休みします。

「令和」への期待

令和になりましたね。 平成を迎えた時と違ってとても明るい改元です。

官房長官が「令和」と発表した時、 すぐに泰煌式生命法(姓名判断)で確認しました。

「令和」 総画/13画、陰陽/○●自然象形、五行/火性・土性

ちなみに

「昭和」 総画/17画、陰陽/○●自然象形、五行/金性・土星

「平成」 総画/12画、陰陽/○○不自然象形、五行/水性・金性

生命法で観る場合、 まず自然象形・不自然象形かをみていきます。 (漢字の画数が奇数か偶数かで判断します)

自然象形の場合は、五行の特性が良い方向に表れやすく、 不自然象形では、五行の特性が悪い方向に表れやすくなります。 特に、最初の五行の影響は強いです。

画数は、物事の運びの良さ(運の流れ)を判断します。 こちらも自然象形・不自然象形の影響を受けます。

「昭和」は17画。自然象形で、最初の五行は金性。 17画は吉数なのですが、苦労を超えて吉に向かう性質。 しかし自然象形なので、その苦労が実ります。 昭和は戦争を経験しましたが、 その後高度成長期、そしてバブルでした。 五行は金性なので、金属関連、金融が脚光を浴びます。

「平成」は12画。支障多く、失意に終わる凶数。 12画自体が凶数な上、さらに不自然象形。 五行の水性から、水害に注意と読みます。 (地震については直接的には読み取れません) 防災意識は高まりましたが、災害の絶えない平成でした。

「令和」は13画。万難を排して急進的に成功する吉数。 自然象形なので火性の性質が良い方向へと向かいます。 火性は、主に芸術や文化、教育を意味するため、 芸術・文化面での発展が期待できる時代となりそうです。

実は占いも火性に属するので、 書と占いに携わる私としては有り難い流れです。

もし、不自然象形の火性であったら 日本も戦争に向かっていったかもしれません。 とにかく自然象形でよかったです。

明るくで情熱的な性質の火性。急進的な勢いの13画。 この令和の祝福ムードが象徴しているようです。

10月のパレードは見にいかなくちゃっ!!!

そして私も書きました。

 

高天麗舟

意欲と興味を育む

超貴重なお弟子さん一名を迎え、 書の教室「麗舟会」、今月からお稽古始まりました。 (お問合せくださった皆さま、いつまでも待っていますので 慌てないで大丈夫です!本当にありがとうございます!!)

要領を得ない私でしたが、 超貴重なお弟子さんが温かく見守ってくださったおかげで 無事、第一回目のお稽古を終えることができました。

やはり、実際に行動すると いろいろと気づきがあるものですね。

指導するまでは、 稽古・指導というのは、技術を教え導くことがキモ! と、何の疑問も持たず思っていたんです。 (もちろん人を導くこともですが)

ところが! 実際経験してみるとキモ以前に、まず 「上手くなりたい意欲」をどれだけ芽生えさせ、 「段階に応じた興味」をどれだけ育み続けることができるか? そこが大切なのでは?ということでした。そして、 そこに指導する側の力量&器が表れるのだろうと感じました。

指導者が楽しそう伝えるだけでは 恐らく聞く側は引くだけでしょうし、 かといって、いきなり突っ込んだ指導をしても ポカンとさせちゃうでしょうし、 ここが私の学びのポイントなんだろうなぁ~と思いました。

こちらもこれから段階に応じて 様々なことをしっかり学んでいこうと思います。

 

高天麗舟

 

 

 

 

癖が魅力に~特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」をみて~

先月の終わりごろ、東京国立博物館で開催されていた 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」を観てきました。

会期終了間際だったためか、とんでもない混雑ぶりで 目線より下に配置してある展示物は ジャンプしたとしても観られないような状況でした。

仕方がないので第一会場は流し見て、第二会場に移動しました。 が、第二会場終盤になると皆さん集中力が途絶えるようで 目の前で展示物を見られるくらいになっていました。

そして、その、皆さんが飽きてきたであろうエリアに 「今日ここに来てよかった~」という作品がありました。

米芾(べいふつ)です。 孫過庭(そんかてい)も王羲之書法を継承したことで有名ですが この米芾も王羲之に徹し学んだ方だそうで 手元の本で二人の書を改めて見比べてみると 米芾の方が断然!王羲之の美しさ汲み取り 表現できているように感じます。(何様?的な発言スミマセン) その米芾の作品ですが、 パッと見るとクセ字のような印象を受けます。 (といっても、それだけ王羲之に徹してきた方なので 一般的に使われる「クセ字」とはまったく意味は異なります) しかし不思議なもので、そのクセがなんか心地良いというか、 このクセがあるから全体が際立つというか、 逆に、このクセがなければもの寂しいだろう… というところまで思わされたことに衝撃を受けました。
このクセそのものが米芾であり、 米芾でなければ書けないジャンルが完成されていました。 クセが魅力という領域にまで昇華した素晴らしいお手本を 目にすることが今回でき、 これこそが、がいつも言っている個性なのだろうと そして、この領域まで来たものを【名品】と呼ぶのだろうと、 頭でわかっていたことが肚に落ち、 またそれを実際に目にすることが出来た感動で 本当に胸がいっぱいになりました。 目から鱗が落ちる…とはこういうことを言うのだろうと 主役の顔真卿ではないところでしたが、 私にとって充実の展覧会でした。 高天麗舟
展覧会がゲキ混みだったので パンダ・ラテを飲んで時間調整しました。

ようやく立春

先月、娘が2歳の頃知り合った母友から方位の相談を受け、 朝から鑑定をしていました。 細かい字の万年暦を見ていたところ、その母友に 「すっかり占い師だねぇ~」 と感慨深そうに言われました。そして 「リコママ(私)は、いーっつも勉強していたよねぇ~」 と懐かしそうにも話してくれました。

本当にうれしかったです。

確かに娘が赤ちゃんの頃から常に何かしら勉強していました。 建築士なので建築関連の勉強をしていたのですが、 そこから風水に移り、そして占いの勉強が始まりました。

社会復帰するつもりでいたのもそうですが 何か勉強していないと、たちまちバカになるんじゃないか? という恐れもあって勉強していました。

そして同じく先月、娘が持ち帰ってきた「学校だより」に こんな一文がありました。 ノーベル賞を受賞した小柴昌俊先生は、「人生は卒業後に自分からどれだけ能動的に働きかけたかで決まる。」と言われました。 と。

本当に今、しみじみそれを感じています。

戊戌の昨年は、手相講座も開き、アウトプットできました。 己亥の今年は、様々なことを勉強して吸収していく予定です。

そしていよいよ! 部屋が片付き(苦笑)、書の教室「麗舟会」を始めます。 (HPにはこれから書きます。)

グリーンのイスは私の席。 その正面に座って書いていただきます。

相変わらず、募集要項はコレといってないのですが、 これまでに私の鑑定を受けられた方か イベントに参加してくださった方で まずは大人の女性を対象に始めていきます。 マンツーマンです♪

書の指導も過去に経験がないもので、 どうなるのか手探りになってしまいますが それでも構わないわよ♪という方、お待ちしております!

稽古:月に1度 1時間程度(日時:その都度相談) 月謝:5,000円 場所:さいたま市(最寄駅より徒歩12分)

もしご興味ある方がいらっしゃったら reishu.takama@gmail.com ↑ こちらまでお問合せください。

立春なのでお雛様飾りました~。

高天麗舟

 

作品に挑戦してみて/2018

泰永書展、お陰様で無事終了いたしました。 会場に足を運んでくださったみなさま、 本当ありがとうございました。

今回は草書を書きました。

毎年作品を書くのに、師のお手本を見て書いているのですが 「今年は自力で書いてみたい~!」と挑戦意欲が湧き出したので ダメ元で昨年のうちに師に申し出てみました。 有り難いことにOKをいただき、昨年10月から書き始めました。

いや~勉強になりました。っていうか勉強以外ない。(笑)

1,362mm×695mmという大きさの一枚の紙の中に、 遠くから作品全体を観た時に作品から訴え出る要素。 右から行を目で追った時に作品から訴え出る要素。 単調になったら飽きられるし、 だからといって、わざと山場をつくったら鼻につく… といった具合に、様々な要素を詰め込んでいきます。

さらに起承転結を視覚的に組立てていくのですが 組み立てる意識を持って書くと 計算が先立ったつまらない作品で留まってしまうので ある程度書き込んでいったら、 終盤は組み立てるという意識を捨て去り、 結果的に起承転結が出来上がるようなところまで 持っていきます。

自分・自意識というものを捨てて捨てて捨て去って 仕上げていかなければなりません。

なんですが、まだ技術が乏しいぶん、 何かを巻き返そうとこの作品にはまだ自意識が残っています。 …苦笑。

約一年を通して作品に挑戦し、 自分の技術のどういうところが足りないのか 心臓が痛くなるほどわかりました。 そして何より、書の鑑賞ポイントを学び、 (まだまだですが)観る眼を養うことができました。 これは本当に大きな収穫でした。

やはり観る眼がないと、 作品を書くにも向かう方向がわかりませんから。

前から感じていたことですが、 多くの人が書の展覧会に興味を持てないのは、 作品の良し悪しがわからないからではないでしょうか。

…今回、合点がいったんです。 書の作品の良し悪しというのは、 そもそも勉強しなければわからないものだったんだ、と。

そして書道展などでなかなか感動できる作品に出会えないのは、 観る側の、作品を観る眼が養われていないことはもちろん、 作家側の、作品を観る眼もないからではないかと。

さて。 半年ほど自力制作に挑戦し、自分の弱点を把握したものの どう弱点から抜け出せばいいのか、途方に暮れていました。 すると、師が最初の二行を手本として書いてくださいました。

一生懸命勉強し技術に限界を迎えたあとの手本は、格別です。 今までなら気づくこともなかったであろうあらゆる要素が 手本から浮き出して見えました。

同じ手本でもその活かされ方は、 受け手側の受信能力によるものだと改めて実感しました。

努力した分しっかり成長しているんですね、自信がつきました。 一年まじめに作品と向き合って本当によかったです。

来年は暑苦しい隷書に挑戦する予定です。

 

高天麗舟

 

感度の低さ

最近ネットで「なるほどなぁ~」と思う言葉に出会いました。

 Experience is not what happens to you. It is what you do with what happens to you.

経験とは、あなたに起こったことではない。 起こったことに対してあなたのしたことである。

by Aldous Huxley(オルダス・ハクスリー

いやぁ~その通りだなと思いました。 私も今となっては苦痛に感じなくなりましたが、 出産直後から育児を通していろいろ勉強させてもらいました。

目の前に起きたこと、それにどう対処するのかは 当人の考え方によるのでしょうが、その前に。 その考え方がどこから起こっているのかといえば どう感じたか?すなわち感性から派生しているのかなと。

例えば、大泣きしている男性をみて 「よほどのことがあったんだろうな」と気に掛ける人もいれば、 単純に「みっともない」と感じる人もいるでしょう。

概ね、短絡的な見方しかできない人からは その後の言動も期待できません。

性格の良し悪しというより、 自分の狭い観念のフィルターを通して物事を見ることにより どうしても「短絡的な見方=感度の低さ」に陥るようです。

よって、オルダス・ハクスリーさんの言う「経験」は 自動的にショボくなるのでしょう。

少し「書」の話になりますが、恐ろしいことに 感度の低さを想像させるような筆跡も時々見掛けます。

練習不足もあるでしょうが、 線の太さやしなり方、強弱、濃淡…すべてにおいて一本調子で 表現に幅がなく表情に乏しい印象を受けます。

こういう筆跡を見掛けると、私などはクチが悪いのでつい 「感度低いなぁ~、エッチも下手なんだろうな。童貞臭いぜ!」 などと思ってしまいます。

そうそう。名品には同じ表現が二つとない、といいます。

上の写真は孫 過庭という書家が書いた「之」という字ですが

一つの作品の中にこれだけのバリエーションがあります。 (写真はその一部で実際にはもっともっとあります)

咄嗟にこれだけ書けるということは、 もちろん練習に練習を重ねたというのもあるでしょうが、 おそらく感性豊かで琴線にふれる数も多かったのだろう…と。

「感度の低さ」の根本はその人自身となるのかもしれませんが、 ここは後天的に変えられる部分もありそうです。

人⇒感性⇒経験⇒人⇒感性⇒経験・・・ とスパイラルに続いていくものかもしれないですね。

だとしたら、できることは感度を上げることでしょうか。 観念のフィルターを取っ払い、多角的に物事を見聞きし、 経験を重ねていく。 そうしていくうちに人間味も増していくのかもしれません。

鈍感だからこそ生きていけるところもあるとは思いますが、 敏に反応できるからこそ味わえる感動もあります。

人間、歳を重ねるごとに凝り固まってしまうものですから なんとかそこに陥らないよう自由度高く、 クソジジィ…いや、いぶし銀のような作品が書けるよう 「書は人なり」ということで引き続き精進して参ります。

 

高天麗舟

 

その価値がわかるまで

群馬県出身の私は、小学生の頃上毛カルタでよく遊びました。 遊んでいるだけで無意識のうちに 群馬県の名産や歴史を覚えてしまうという驚異のカルタ。(笑) あれから40年!(きみまろ風に) 時が経っても「つ」と言われれば、 「鶴舞う形の群馬県!」と答えてしまうほどです。

その上毛カルタの「む」なんですが、

小学生時代は音で記憶していたもので 「タゴノコヒってなんだ?」としか思いませんでした。

あれから40年!(やっぱりきみまろ風に) 大人になった私は書に取り組む日々を送る中で 自然と碑にも関心が高まり、 「そういえば、多胡の古碑ってどんなものだったんだろう?」 と調べたくなりました。

そしたら「んまぁ~なんとスゴイ碑が群馬にあったことか!」と とんでもない史跡であったことをやっと認識。

書家 野尻泰煌先生によると、この多胡碑。 日本書道史の最初の方に載っているのだとか。

詳しくはコチラ↓ https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/03.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%A2%91

小さなことに囚われていない気持ちイイ楷書!! こんな書が、奈良時代初めに群馬にあったのか~!! と衝撃の嵐!

が、しかし。 これは私が真面目に書(特に楷書)に取り組んでいたから湧く感想で 同じ大人でも書をやっていなければここまで感動しないはず。

作品そのものの価値をわかるって、 やっぱり知識だけじゃ無理なんだなぁ~と理解した瞬間でした。

美術的価値だけでなく、 歴史的価値のあるものや文化財を残すことって 興味ない人にとっては本当に無意味に思われてしまうもので そこが何とも悔しいところです。

王羲之の真筆も残っていませんし、 バーミヤンの遺跡みたいに 宗教が違うとか価値観が違うとかで簡単に破壊してしまう。 その価値を理解できない人が力を持つって恐ろしいことです。

この多胡碑も700年もの間、空白の期間があったようですが 今日までこの碑を残すことに力を注いでくれたみなさまに 心から感謝を伝えたい… そんな気持ちになりました。

高天麗舟

書展に出品して気づいたこと

10月1日(日)、泰永書展が無事終了いたしました。 起こしくださった皆様、本当にありがとうございました。

↑↑ こんな感じで後片付けも楽しく終えました。 高い所で作業しているのが四柱推命の師、浅野太志先生 下で巻いているのが茶人、高堂巓古先生

さて、今年はハンガリーとの国際交流展ということで、 会場にはハンガリーの写真家 ゾルタン・ガール氏の作品も 展示されていました。 ↓↓

この「写真作品」というのが今回個人的に大変勉強になりまして… 何が勉強になったのかという話はまた後日アップいたします。

そして私の作品はこちら ↓↓

何 紹基(か しょうき)の作品をもとに一部臨書したのですが 臨書のままだと作品として映えにくいので、 にお手本を書いていただきました。

私が展覧会に出品するのは今年で4回目です。 今までは自分の作品をみても、「こんなの書いたんだなぁ」くらいで これといった感想は浮かばなかったのですが、

今年は作品を観る目がソコソコ養われてきたのか、 「あ~、もっと書けばよかった。ここからやっと作品になっていくのに」 と後悔のような感情が出てきました。

自分で言うのもナンですが、キレイに書けてはいるんです。 ただ、そこから先が「書」というジャンルの醍醐味なだけに 到達していないなぁ~と思いました。

いちばん左の五幅目の調子で一幅目から書ければよかったのですが やはり、いちばん右の一枚目には緊張が表れてしまっていて、 三枚目で中だるみ、 五枚目で「やれやれ」と脱力しているのが伝わります。苦笑

もっと書き込んでいけば、一枚目から脱力できて、 その脱力から波乱や想定外の事態が導き出されたりするのですが、 まだ予定調和な感じで留まっていますね。

あと、これは私の身体的構造というか、手のクセといいましょうか、 もしかしたら美的執着なのかもしれませんが、 どうしても書いた字の構造に一定の癖がみられまして まだ自分の心地よさの上でしか作品を書けていないんだな、 ということにも気づきました。

こういうのもブチ壊して越えていかないとダメですね。

↑↑ 会場の様子です。 (一番下の写真、中央大きな作品が野尻泰煌先生の隷書です)

写真の通り、会場を見渡すといろんな書体が並んでまして、 これがまた刺激になるんです。

そして、 「自分がこの作品と同じものを書いたとしたら、 どんな風に仕上がるのだろう」 と、自分に興味が湧いて湧いてどうにもならなくなりました。(笑)

さらに、単純に、各書体を作品にする上で、 どういったことに注意して書くものなのか経験したい! という気持ちも湧いて湧いてどうにもならなくなったので 今後、全書体にチャレンジしようと決めました。

まず来年は、荒れ狂うような草書に挑戦です。 もちろん、わざと乱れさせて書くという小賢しい意味ではなく 「たんたんと書いていたのに乱れちゃった♪」みたいな感じで、です。

その次の年は逆巻くような隷書。

いずれにしても、毎年クソジジイのようなテイストです♪(笑)

書と占い、一見別々のジャンルのように思えますが 書に打ち込めば打ち込むほど、人を観る目までもが養われ、 それだけでなく、占いの読み解き方にも深みが出て、 私が目指すところの「黙って座ればピタリと当たる」に近づけるのです。

とにかく、がんばります。

高天麗舟

体得してこそ秘技

古くから伝わる術や伝統的なものには何かと秘技があるものです。

占いの世界にももちろん秘技はあって、 その昔、秘技を伝授する際には決して紙に書くことはせず、 必ず口伝えと決まっていたそうです。

もちろん書にも秘技はあるのですが、 書家・野尻泰煌先生の場合は、真面目に取り組んでさえいれば 勿体ぶることなく普通に弟子達に伝授してくださいます。

「秘技」と聞くと それさえ知れば、今すぐにでもスゴ技をこなせるかのような、 そんなイメージを抱いていたのですが、 ところが実際にそれを聞いても正直「へぇ~」くらいなもので 逆にどうしてそれが秘技なのか?と不思議に感じたほどでした。

が、しかし。甘かったー。

頭で知っただけでは秘技が秘技の意味をなさいのだ、と それを体得しなければ秘技を知ったことにはならないのだ、と

その秘技を練習して練習して、身体で理解し始めて、 初めてそう気づいたのです。

「これがそれだったのかーっ!」と 秘技を使えた瞬間は本当に感動ものでした。 (現在、身体に落とし込み中)

師は言います。 「いろんな人から『書が上手くなるコツは何ですか?』と聞かれるけど そんなものあったらボクが聞きたい。練習以外何もないよ。」

秘技は体得して初めて秘技なんだなぁ~と 身体の深いところで理解できました。

↑ 自分でも練習しましたが、うまく書けなかったため 師の手本を載せました。 「秘技」と書いてあります。

 

高天麗舟

 

 

基本を叩き込む

今日は書の話と近況です。

最近、楷書ばかり書いていました。

欧陽詢(おうよう じゅん)の楷書で書いています。 書き始めた頃は黒ばかりに気を取られて書いていましたが、 最近は布白に目が向くようになり、だいぶバランスがとれてきました。

なぜ楷書ばかり書いていたかというと、楷書を身体に叩き込んでおけば 草書(読めない字)や行書(少し読める字)など 手を早く動かして書く書体の時に、バランスが崩れなくなるからです。

一般の方にはわかりづらいかもしれませんが、 草書は基本が出来ていないと果てしなく汚い字になるので 王道でいくなら楷書が上手くならないと草書の上達は難しいです。 しみじみ「急がば回れ」だなぁ~と思う今日この頃です。

徹底的に楷書の練習して半年くらい経ったでしょうか、 久しぶりに草書を書いてみたところ(下の写真)、 面白いくらい手本を見る目が変わってきたことが自分でもわかりました。

一番下だけ少し雰囲気違いますが、すべて草書です。

今まで気づかなかった細部に目が留まるようになったり、 咄嗟に黒と白とのバランスで手本を感じられるようになっていました。

こちらは何 紹基(か しょうき)で書いた行書です。

草書を上達させたいなら草書だけを練習すれば良さそうなものですが 実際はそうではないんですね。やはり基本は大事です。

手相の勉強をした時もそうでした。 徹底的に生命線・知能線・感情線・運命線の基本四大線を勉強し、 そこから全体を勉強し、手全体を観られるようになると また基本四大線に戻って勉強し直します。 基本四大線の勉強も二回目、三回目の方が、より深くまで学べます。

私が所属している泰永会では今、級段位制は設けてはいないのですが つい半年前まで野尻泰煌先生に3級レベルと言われていた私の楷書も 先日とうとう1級の判定をいただき、 すべての書体を通すと、現在「初段」という状況だそうです。

しかし、「作品として仕立てる技量はすでに備わっている」ということで 作品については師範レベルと言っていただきました。

師が考えている級段位は、一番下を0とし、下から 9・8・7・6・5・4・3・2・1級⇒特級⇒準初段⇒初段⇒2・3・4・5段⇒臨師⇒師範⇒成家⇒役員 と続くもので、改めて「師範」というレベルの高さに驚きます。

以前、四柱推命の師匠浅野太志先生と一緒に書のお稽古を受けた時、 浅野先生が私の作品を見て本当に感動してくださいまして、 (浅野先生は直球タイプなので伝わります、ありがとうございます!) なんと!その作品を欲しいと言ってくださったんです!!

心から嬉しかったので邪魔になるかもと思いつつ差し上げたのですが、 「せっかくならもっと良いものを差し上げたい!」という思いもあって、 その後も、必死に書きました。

そして、今週またお稽古でお会いした浅野先生に 上の写真のどちらか(五枚でひとつの作品)を貰っていただきました。

進んでは基本に戻り、また進んでは基本に戻り、 そうやって基本により忠実に、 そして全体が底上げされていくんだなぁ~と実感しています。

 

高天麗舟

 

大器免成

泰永書展、無事終わりました。 雨の中、会場に足を運んでくださったたくさんの皆様に 心から感謝いたします~!!

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こちらは私の作品で、老子道徳経の39~41章を書きました。

この中に、「大器晩成」という文字が書かれているのですが、 (ヒント:一番左の軸です) “大人物は世に出るまでに時間がかかる” という解釈でおなじみの言葉です。

なんですが、 …大方無隅 大器晩成 大音希声 大象無形…と続くこの文章。 (一番左の軸の、右列に書いてあります) 徳間書店の本によると、

またとなく大きい四角は角が見えず、 またとなく大きい器は完全な器とは見えず、 またとなく大きい音は耳に聞こえず、 またとなく大きい形は判別できない、

と訳されており、 大きな器について、「時間はかかっても完成する」となるはずのところ、 無理やり否定形にされてしまっています。

いったい、どういうことなのよ??

というのが、どーしても気持ち悪くて、 腑に落ちないまま展覧会を迎えるのは避けたかったので 展覧会前日、ちょっと調べ直してみたんです。

そしたら!蜂屋邦夫さんが書かれた老子の本に 〝近年出土された老子の竹簡には「大器免成」と書かれており〟 という内容が載っていたのです!!

「大器免成」となると否定形の文章になるそうで、 “大いなる器は完成しない” と、とても調子がととのいます。

ということで、こちらの漢字が正解のようです。 あ~スッキリ♪(笑)

じゃ~「大器晩成」って言葉はウソなのか?というと、そういうものではなく 「大器晩成」で通っていた1,800年もの歴史があるんだそうです。

大きな器は完成するまでに時間がかかる ↓ 大物は世に出るまで時間がかかる

これもある意味納得なのですが、老子的には、

大いなる器は完成しないものなんだから、 作為たっぷりに大物になろうなんて小賢しく生きるな! 完成する程度のものは小物だよ♪

でしょうか。 正解はわかりませんが、私はそう受け取りました。

あ~、肩のチカラが抜けるわ~♪ ありがとう、老子!!

今年の作品は王羲之(おう ぎし)の伝統にそって書いてみましたが、 来年は張 瑞図(ちょう ずいと)にチャレンジしてみようかな。 「エッジのきいた」を通り越して「刀で切られるような」作品に憧れます。

高天麗舟

 

以下、展覧会作品の一部です。

我が師、野尻泰煌の作品。

イタリアからの作品、釘が見えます!

小さいのに圧倒的な存在感!

ありがとうございました。

高天麗舟

うれしい誤算

仏像の手相をみるのが趣味の私。

今、上野に奈良中宮寺の半跏思惟像がいらしているので チャ~ンス♪とばかりに先日行ってきました。(7/10まで)

トーハク

もちろん、仏像はお寺で観るのが一番と私も思っているのですが、 中宮寺では半跏思惟像を正面からしか拝めません。 身を乗り出しても手相まで覗くのは無理だし、しかも暗いっ! ということで、360°舐めるように観られる博物館展示は魅力なのです。

…なんですがっ!

会場に入ると、中宮寺以上?の驚きの暗さ。 しかも、その小さな照明がまさかの逆光!手のひらが陰になってました。

結局、ほとんど見えませんでした。(苦笑) ま、仕方ないですね。そういうこともありますよ。

そのまま惰性で常設展の展示室に向かいます。

すると、なんと。 私の大好きな湛慶(運慶の長男)作の三十三間堂の仏像が 展示されているではありませんか♪

これですっかり上機嫌です。(笑)

時間があまりなかったので、急ぎ気味に館内を進むと… 心奪われるような書がありました。 思わず小走りで駆け寄ります。

トーハク一行

これは、すごい!!猛烈にイイ!!写真でみてもイイ!! 「北島雪山」さんという方の江戸時代の書だそうです。

さらに進むと、あれ?これも素晴らしいわぁ~という書が。

トーハク一休

ガラスが反射して見にくいかもしれませんが、一休さんの書ですって。

書から受ける一休さんは、 一休さん

↑こういう雰囲気ではなく、

ikkyu1

↑やっぱりこっちでした。(笑)

さらに進むと、

トーハク良寛

良寛さんの書がありました。 見入ってしまいます。良寛さんの境地が感じられます。

なかなか書で感激することって少ないのですが、 一日に三度も書で感動できた幸せというのでしょうか、 本当に満たされました。美味しいものを食べる以上に幸せかも。 こういった感動の積み重ねが、書に反映されていくんでしょうね。

最後に、18~19世紀くらいの根付にクスッとして、会場を出ました。

いや~、良い日だった。満足、満足♪

 

高天麗舟

 

意識を超える

天道先生

先週、周易講座で2年間お世話になった天道春樹先生に書を贈りました。(写真:「先生笑って!」の一言に固まった天道先生。笑)

易経の、乾為天(けんいてん)という卦の中にある『飛龍在天』を草書で書きました。字ヅラがとってもカッコイイです。

「先生、私、2年間お世話になったお礼に作品を書いてきたんです。もらっていただけますか?」

天道先生、あまりイヤな顔をせず、というか、むしろ興味ある表情で箱を開けるのを待ってくださいました。

草書なので、何と書かれているのか説明し、「先生、うれしい?うれしい??」「先生、いる?いらない??」と、しつこく迫ると(笑)、「うれしい、うれしい」「欲しい、欲しい」と付き合って答えてくださいました。

この作品が出来るまで、100枚くらいは書いたかもしれません。

一応、書の師にお手本を書いていただいたのですが、師の世界観が出まくっていたため、とてもじゃないけど真似できず。(笑)

改めて、基本的なお手本をいただきました。

草書だったり行書だったりのお手本を、手が勝手に動くような感覚になるまでひたすら真似して書きます。

次。まるで「わんこそば」のように師が私の目の前に半紙を置き、今度はお手本を見ずにスピーディに書いて書いて書きまくります。千本ノックに近い激しさ。

「ダメー。まだ意識がある。」

などと言われながら、これを数回繰り返し、作品用の紙に突入。

一心不乱という言葉がぴったりだったでしょう。

そうして、結果的に写真の書を迎えました。

自意識がないので「迎えた」という表現です。

我に返り、改めて自分が書いたものを見ると、これ本当に私が書いたのだろうか?というポカンとした気分と、良い書だなぁ~という感想が残りました。(不思議なことに自画自賛という感覚はない)

見どころのひとつをお知らせすると(自分で言う?笑)、で囲われた部分の筆の入り方がすべてバラバラな形になってます。

自然には同じものが二つとない♪…書も同じ。

飛龍在天まる

意識があるうちは、この部分に自然な変化はあらわれません。

うまく書こうと思っているうちは、良いものは書けない。

モテようとカッコつけているうちは、モテない。

(笑)

すべては自意識を越えたところに。

しかし、書というのは一般の人には価値がわかりづらいものです。

今回も師に「この書を売るとしたらいくらですか?」と聞いてみたところ…「う~ん、額入れて¥50,000だな。」と。

自分でもその金額には驚きました。驚いていたところ、

「あのね、紙の大きさとか文字数じゃないの。仕上がり、デキなの。それくらいよく書けてる。僕が言うんだから間違いない♪」

ということで、天道先生にも「これね、売ると5万なんですよ♪」と。(笑)

天道先生、お荷物になるにもかかわらず想像していた以上に喜んでくださり、大阪の鑑定室かどこかに飾ると言ってくださいました。

勝手に作品なんか贈ってご迷惑かもしれないなぁ~と躊躇しましたが、贈りたいんだから贈ってしまえ!と勇気を振り絞ってよかったです。

正直、男性占い師から男らしさを感じることってほとんどないのですが、この天道春樹先生は懐が深く、大変失礼な言い方ですが、本当にイイ男です。

贅沢な私が言うんだから間違いないです。(笑)

とにかく出会えてよかった先生です。

感謝です。

 

高天麗舟

 

 

こんなの書いてます…

私のプロフィールには「書家」とあります。

でも人に教えているわけでもなく、書を売っているわけでもありません。

ただ、毎朝、家族が起きる前に何かしらは書いています。

私の場合、「書」を通して瞑想している状態で、

「書」で気づきを得て、

「書」で不要なものを削ぎ落としているような感じです。

ということで、

「書」が上達すると、「占い」も上質になっていくとわかります。

はい、がんばります。(笑)

最近、鑑定のお客様から

「どんなものをお書きになっているんですか?」

という質問が重なりました。

ので、(笑)

今日はザックリですが、昨日書いたものを載せます。

行書

↑↑ こういう荒い字は大好きです♪書きながら興奮してきます♪(笑)

三十七章

↑↑ これは、今年の展覧会用の練習です。長さ2m30cmくらいの紙。

失敗しても落ち込まず、上手く書けても舞い上がらず。

そうしていくうちに、強い精神へと鍛えられていきます。

 

たかまれいしゅう

高天麗舟